2008年08月13日

 準復活論 ( 論パの調子 )

別に状況は良くなっておらず、テンションも高い訳ではないのだが
どうやら頭の調子は良いようだ・・・。


頭の調子が良いと、ほぼ休み無く思考が動いている。
ザマサマザな事が駆け巡り、いろんな結論が出てくる。

答えが出てくる。

現在日本を変える唯一の方法も、弾き出た。


まあそれは、さておき・・・。


両膝を痛めて全治10日なので
歩く事ができないから、テレビをよく見てる。

NHKはやっぱり面白い。

お昼の番組「スタジオパーク」に
芥川賞作家・柳 美里( ゆうみり )
が出ていた。
彼女は17歳で劇団に入り、そこで
劇団の代表・東 由多加( ひがしゆたか )
と出会う。
この出会いが彼女の運命を変える。
( ちなみにこういう瞬間は、努力や頑張りでは手に入らない。 )


才能は才能によって磨かれる。
この実感が無いなら、あなたの進むべき道は間違ってるかもね?

特筆すべきは、東 由多加が柳 美里に言った言葉。
「 あなたの人生はマイナスだが、表現という世界は、マイナスがプラスになる世界だ 」

最近の私は・・・
「 才能があるという事は、一生幸せにはなれない。 」
という答えを、しみじみ出していたので。

「 ああっ、やっぱりね〜。 」
と、刺激なく再認識した。


柳 美里は、不幸を糧にする。
日常に棘があり、不幸であればあるほど、執筆が進む。
( マゾと云えば、それまでなんだけど )


言っておくけど、才能精神力キッカケがあって
初めてマイナスがプラスになるから、安易に不幸を求めない様にね。
不幸は本来、不幸でしかないよ。





足を痛めて、解かる理解に。

信号・交差点の中央分離帯

足がまともな感覚で、つい青信号点滅で進んだ。
途中でヤバイ!と気付いた事が何度かあった。

引き返すが数度、途中の中央分離帯で待つが、2・3度。

交差点・信号は
「 年寄り・障害者は渡るな 」
という設定で創られている。
( 解かってた事だが、自分がなるとつくづく実感・・・。 )

中央分離帯の基準って、あるのかな?
もし無いなら、最適な基準をつくるだけで、お年寄りの事故は減る。

後、これも以前から理解してる事だが、町には
 イスが無い
これも
「 年寄り・障害者は出歩くな 」
という設定である。


大坂の町を変えたければ、実はイスを増やすだけでいい。
( これがどの様な意味を持つか?賢い人には解かるよね。 )
イスが少ない最大の理由が、殺戮の車社会なんだけどね。

まあ、それだけの事だが、メンドクサイのでそういう提言運動を、私はしない。
弱いものは皆、我慢してるんだから、贅沢を言ってはダメでしょ。
今年は耐えるを尊しだ!

お金持ちになって、一戸建てに住めれば
家の前の道路に、イスを一つ置こうと思う。

もし町内会や行政からクレームが来ても、絶対に譲らない。
もちろん夜間は、家にしまうけど。
長く誰も座らなくても置く。

イスというのは、座る人を待ち続ける存在。
いつか誰かが座る時、イスはイスとなる。

文明が進化しても、未だに人間は座る。
携帯とイスどちらが大事だ?



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しばらく書いてなかったので、腕が鈍ってるんだよね。
だから悪いけど、難解饒舌不親切権威式でここからは書くね。

だーいじょうぶ!
自分が偉くて賢くて、他人に不遜な意見を述べれる、将来出世間違いない人には、スラスラと理解できる筈だから。

では・・・。



【 常の過評価 】

人間の精神には、個別の意識があるが、その意識を共有しているという認識もプログラムされている。

個々の意識が完全なる個々でない状態を、心理学では集合無意識・深層意識という捉え方をする。
また、生物学や動物学では、集団行動に於ける本能という位置づけをする。

集団から個という21世紀近代に於いては、過去へのアンチテーゼとして、全体への完全否定という概念が生まれてもおかしくは無い。
1999年米映画「 THE MATRIX 」で描かれた世界を、もう1段進めた概念・思想となる。
多数の連動性を、生命以外が代替する事が可能になった場合の話である。

現時点の平均人類の思考では、想像が困難な概念である。

個の意識は個としての安定性を欠く。
よって、意識の中に全体の概念を持ち( または設置 )それと照合の作業を繰り返す。
幼少時に於いては、外部情報の確定を脳が行なっておらず、時期尚早という決定付けがなされていると考えられる。
この影響は、外部に発する情報・行動にも現れる。

年齢によるカテゴリライズ等は、この為である。

これを踏まえた上で
常時的判断への誤診を、論題として分析・解説をしていこう。

この多重的且つ不安定な意識構造が、時間の継続性によって、ある一定の波に落ち着いた時、瑣末からイベントまでの判断を繰り返すのだが。

その判断・行動に完全なる結果は常に得られず、また得た結果を完全とする基準は、現実には皆無である。

脳の機能として該当の可能性が高低で、受諾するか拒否するか?
という判断であり、その是非は正誤( 現実には無い )という観点では、実はない。

個の脳基準と外部との関係性が、常時的な判断の最大課題である、人間の精神は
「 彷徨う心 」であるが、そこへの関心が高いという事は、解体と破壊を意味し、現実への対応が困難となる。

無関心・無意識そのものが、脳の高度な維持機能ともとれる。
( 例によって、この論題も現在の学問では、まだ未開発の論理である。 )

常時的判断の誤診は、関係性の崩壊( 生命の危機を含む )を生む。
この判断に於いては、行動の種類と度合いで主に行なわれる。
過評価という基準を主に、ここでは述べるので、度合いの分析で語る。
種類については、便宜性が主に動機となるようだ。

日常・生活に於ける他者との関係について、最も重要なのは利であるが、行動の惰性という利が絡むと、関係の利が2の次になる傾向がある。
よって能動的でなく非生産的な他者との関係性も、絶つというエネルギーを向ける決断に於いては、億劫というエネルギー保存の利を優先する。

相対的な利ではなく、常時的な少量の利で、生活が流れる。
固体に於けるエネルギーの分析も、未だ学問としては確立されていない。

関係性の崩壊に於いて、主導権を握り操作が可能な場合。
結果のレベルが低い・またはマイナスの場合、その誤診はダメージを受けるであろう。

数度の経験則と、多くの社会的事象に照らし合わせた結果。
過評価への自覚と、過評価への再調整が必要であり、また新たな種類を付加する事で対応すべきであると考える。

現行の利と見える中に、未来への不利益が存在するのだが、通常の生活レベルにおいて、瑣末に捉える。
個人レベルではあるが警戒が必要であり、将来の利益を求めるのであれば、この分析は賢智となるのは明白である。

改めて言うが、要警戒すべきだが察知しづらい関係性の存在は、地雷の様なものである。
しかしながら、この様な事象でも対策はある。
それをこの度は、示唆として提示する次第である。



 ・要約・

  ○ 個は既に全体であるが、その確証は常に無い。

  ○ 判断の基準は正誤ではなく、許容のレベルで決まる。

  ○ 相対的な20世紀精神の総括は、未だ行なわれていない。

  ○ 常時的判断の誤診は、主に過評価・行動種による。

  ○ 存在のエネルギー法則は、未知のジャンルである。
    ( 現行学問で存在=エネルギーまでは、導き出された。)

  ○ 過評価においては、自覚での修正が可能である。





「 フゥ〜ッ、終わった〜[m:210] 」

幾つかの閃きにによる、新論理も含んでいるから、20代で解かった人は
「 ひえ〜っ、てっ天才〜![m:246] 」
だよ。

私でさえ、書いてて解かんなくなったからね〜。
 



初出08年3月
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posted by ギャラリーZzz 臓図 at 01:08 | TrackBack(0) |  【 0 8 論 パ ー 】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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