2008年03月16日

 40スー銅貨 補足

と、その前にクイズです。

以下の対談をしている2人は、誰でしょう?


[ A氏 ] 

 それでは体はどうかと言いますと、もし、皮膚の移植が必要で、親からもらって移植したとしてもあっと間に落ちてしまいます。
 親だろうが兄弟だろうが、自分の皮膚ではないのです。
 身体組織というものは、そのくらい細かく個人を区別してるんですよ。
 
 若い人が「 自分探し 」とか「 自己 」と言うのを聞くと、私は「 アホなことを言うんじゃねえ 」と思います。
 若い人が「 自分探しだ 」なんて言うのは、ラッキョウの皮むきと同じで、むいていけばなにもない訳です。
 自分探しをしたいなら、体を見れば分かるという事なんです。
 あなたの顔は隣の人と違うに決まっている訳で、それ以上何を心配してるんだ、ということなんです。


[ B氏 ]

 個性なんていうものは、体が規定しているんだから、コミュニケーションにおいては、安心して共通点を探していいんですよね。
 コミュニケーションにおいて、個性なんてあえて追求する必要はない。
 共通点を模索している中で、それとなく出てくるのが個性なのでしょう。






えっと・・・
前者のA氏は、まだメディアに出始めの頃、NHKの番組で手塚治虫がヒューマニズムでない事を伝えていて、私は
「 誰だ?この解かっている人は? 」
と思った人です。
B氏は、今NHKの番組で司会やってますね。


漫画家のみうらじゅんが、面白い事言ってて、それが

「 自分無くし 」

映画批評本で「 そこがいいんじゃない! 」をテーマに語るというものなんですが。
映画に没頭すると、その世界に入り込んで、自分を忘れちゃう。
映画の主人公になりきってしまったり。


まあ、いつの世も若い世代は何かに捉われる。
そこがいいんじゃない、と言えばそうな訳です。

探しているのは、何かに夢中になって自分を忘れている自分。
自信がないから自身を探す。

良くないとすれば、そこを悪どい大人に利用されたり、浅はかな妄信になったりする事・・・かな?



上記の2者は、心のメカニズムについてプロで、なぜそういう現象・反応が起きるのか?を、やはり探求していってますね。


恋愛でいうと、好きな人がなぜできるのか?
なぜ、好きから嫌いに変わるのか?
嫌で別れるのと、死に別れは同じ人同士の別れなのに、価値が変わるのか?

なぜ人類皆兄弟というタテマエと、あのハゲ親父がキモイという日常的感覚が共存できるのか?


感情の理由ではなく、その感情が起こるメカニズムと。
後これが難しいんですが、そこに論理が実はある。


最近、私が問題を解くキーワードが「 幸か不幸か 」なんですが。
殺人を犯し発覚した場合、まあ被害者は不幸な訳ですが、加害者も不幸ではないだろうか的な考えです。
( 殺すのが好きな人は別ね )


ですので、自分探しという流行で言えば、それが不幸でなければ別にどうでもいい事なんですよね。
唯、自分を捜さないといけない心の状態が現代として、それが年間3万人の自殺者を生む兆候の一つなら、それは不幸かもしれませんね。
( もしもの話ね )



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で、レミゼですが、補足はたいした話ではないので、あまり期待しない様に。


「 プティージェルベー! 」のシーンは地味です。

しかしながら、そこに真がある。
だから凄いと勝手にテンションが上がったのですが、物語を創る時
クライマックスってとても大事です。

そこに、創り手の言いたい事が、すべて集約されます。


ガラスの仮面という漫画があって、主人公の北島マヤとライバルの姫川亜弓が、ヘレンケラー役を交互に演じる事になる話があります。
ここで2人が悩むのが、ヘレンケラーの

「 ウォッウォッ!ウオーダァー! 」

のシーンです。
( 水ね )

確かサリバン先生が、井戸の水をヘレンにぶっかけたか何か?だったと思いますが、これをキッカケにヘレンは全てを理解する。
その最初の叫びが「 ウォーター! 」です。

ヘレンが世界を知った瞬間。

ジャン・バルジャンが真理を知った瞬間。


超クライマックス!です。

2人はどう演じればいいか悩むのですが、北島マヤは御祭りの水風船が弾けたのを見て
「 これだ! 」となり。
姫川亜弓は、洗濯機のコンセントを入れた瞬間、感電し
「 これだ! 」となる訳です。

( 余談ですがこのエピソード、姫川亜弓の描写がページ数が多かった。 )


これだ!のシーンはまさしく、発見のシーンな訳です。
これこそまさしく、自分探しの真骨頂です。

つまり世界・真理が、自分と繋がる瞬間を描いている訳です。


では、実際にこの様な瞬間が、多くの人の人生にあるかというと・・・
まあ無いです。

不思議な事に、この共感できない事柄に、私達は感動します。
( なんでだろう?また考えないとな )





なんにせよ、凄いシーンなんですが「 40スー銅貨踏み付け事件 」が、なぜ記憶になかったのか、そしてこのシーンがなぜクライマックスなのかを、ちょっと考えてみると。
( たいした考えでない事を、もっかい強調しときますね。 )

まず、なぜ記憶になかったのか?
それは、最初にも言いましたが、地味だからかもしれません。
冷静に考えると、何の事はない場面です。

子供が落としたお金が足元に転がってきて、気が付かなかった。
それだけです。

もしかしたら、結構舞台とかでは、この場面を省いてるんじゃないか?
と、最初思いました。
ウィキペディアにもわざわざ載ってますし、通常の感覚ではそれは、ありえない。

後、考えるとしたら、私がレミゼ知ったときが若かったからですかね。
物事にノーテンキな年齢だったから、かな?
なんのこっちゃ?と、思ったのかも知れません。

「 司教が情けを掛ける 」は解かり易いです。
覚えてました。

年取ったから、凄いと認識できたのかも知れません。


ジャン・バルジャンは兄弟愛からパンを盗み、19年 獄に繋がれた男です。
心はすさみきっています。
世の中を恨んでいます。

「 俺が悪いことをして、何が悪いか! 」です。

司教が警察に嘘をついて、銀の食器をくれた。
そりゃ呆然としますわな。
訳が解からない。
なぜ、赤の他人を救うのか?
なぜ、囚人だった自分を助けるのか?
( 多分、嘘というパラドックスが更なる隠し味になってると思いますが )


その謎が、40スー銅貨事件で、もっと大きな謎を解決させる蓄積となります。


同じシチュエーションで考えた時。
「 あーっ!このお金、さっき子供が落とした奴やわ、まあええか貰とこ。 」
という人も入る筈です。

ジャン・バルジャンは、自分に起こったこれまでの人生から、司教の謎が布石となり、このささいな事象で一気に、この世の真理に行き着きます。

人間の意図に関わらず、事象は起こる事を知ります。
そして、罪が成立する事を。
人が持つ逃れ得ない悲しみを知ります。


ジャン・バルジャンは、飢えた兄弟の為にパンを盗みました。
19年の監獄で心を失くした男が、ここに自分を取り戻したのです。
元々優しい男だったのです。


人間としての闘いに再び戻る・・・。

 【 復活のシーンです。 】



歪曲した説明かも知れませんが、罪が人間性・善意を浮かび上がらせる最大の道具として、レ・ミゼラブルは描かれているのかも知れません。




とりあえず、「 ああ無情 」を本屋で買ってきて、これから読みます。
( おいおい! )

 



 
posted by ギャラリーZzz 臓図 at 19:24 | TrackBack(0) |  【 論 パ ー ル ー ム 】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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